近鉄バファローズ回顧録⑤“スーパースター野茂英雄投手”
近鉄バファローズのブログを書こうと思うと、記憶と参考になるYouTube探して、その動画見て1人懐かしくて楽しくて、関連する動画また見て、楽しくなってブログを書くのが、めっちゃ時間がかかってしまいます。過去平均3時間かかっています、もっさんです。
今日は、近鉄バファローズを振り返る上で、絶対外せない野茂英雄投手のことを書きたいと思います。
近鉄バファローズは、こんなチーム
近鉄バファローズというチームは、「いけるぞ!」と期待をしてしまうと、ダメになってしまい、「ダメだ」「無理や」と諦めたときに、見事に裏切って、いってしまう不思議なチームです。
野茂英雄投手のポイント
- トルネード投法で三振をバッタバッタと奪っていった投手
- ドラフト会議で当時史上最多の8球団が1位指名をした。(それまでの最多は、阪神岡田、西武清原の6球団)
- 1年目に最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、ベストナイン、新人王、沢村賞をタイトル獲得
- 入団から4年連続最多勝、最多奪三振
- 現在のメジャー挑戦のパイオニア的存在(野茂投手以降、日本人選手のメジャー挑戦が活発化した。
ついでに豆情報
- 専属捕手は、光山捕手(豆情報)
- 1度だけ打席に立ったことがある。(オールスターで、秋山選手がファールを顔に当て、オリックスのヘルメットを被って代打で打席に立った)
1989年ドラフト会議
1989年パ・リーグ制覇、日本シリーズではジャイアンツに3連勝の後の4連敗で、残念ながら球団初の日本一にはなれませんでしたが、1989年ドラフト会議ではやってくれました。注目NO.1の野茂英雄投手が近鉄入団することになりました。ロッテ、大洋、日本ハム、阪神、ヤクルト、ダイエー、オリックス、近鉄の8球団の1位指名競合と。ちなみに、それ以外の球団の1位指名は、中日 与田、西武 潮崎、広島 佐々岡、巨人 大森。
当時ドラフト会議の司会のパンチョ伊藤さんの「第1回選択希望選手 近鉄 野茂英雄 21歳 投手 新日鉄堺」のフレーズは小学生時代流行ったなーーー。
今、見て気づいたんですが、1位指名が競合した場合は、下位球団からくじをひくのですが、近鉄仰木監督のくじ引きが1番最後だったんですよね。ということは当たりくじが最後まで残っていたのに、運命を感じるし、仰木監督は持ってるわーー!!!って。
当時の貴重な映像を見つけました。
出てくる監督たちが全てわかる方は、通な人ですね。
この年のドラフト会議は、後にプロ野球で活躍する選手が多かったんですよ。
ヤクルト 西村投手、古田捕手、広島 佐々岡投手、前田選手、中日 与田投手、阪神 新庄選手(5位入団)、大洋 佐々木投手(大魔神)、巨人 吉岡(後に近鉄で主力で2001年の優勝に貢献)、ダイエー 元木(入団拒否し浪人、翌年巨人に入団)、近鉄 石井選手、西武 潮崎投手、オリックス パンチ佐藤、日本ハム 岩本投手(ガンちゃん)、ロッテ 小宮山投手と、90年代、00年代を代表する選手がたくさんいた豊作と言われたドラフト会議でした。
トルネード投法
当時の小学生の物マネは、オグリビー→八重樫→野茂英雄になったんじゃないでしょうか。それぐらい特長的なトルネード投法。野茂投手以降、トルネード投法で甲子園出てきた高校野球選手もいましたが、やはり、トルネード投法は、野茂英雄投手でしょう。
高校生頃からトルネード投法の原型みたいなので投げていたそうですが、1988年のソウルオリンピックで銀メダル獲得に貢献し、近鉄入団になりました。
そんなトルネード投法、近鉄入団の契約書に、“ピッチングフォームはいじらない”という文言が加わっていたそうです。今、思うのは、当時の近鉄の仰木監督だったのも、うまくマッチしたんじゃないかな、と思っています。
入団当初、三振をバッタバッタと奪うので、「ミスターK」と呼ばれていましたが、ミスターKだと、三振をたくさんする人=三振王になるので、三振を奪うという意味で、「ドクターK」と呼ばれるようになったのが記憶の片隅にあります。
藤井寺球場で思い出のKボード
野茂投手が先発する日は、赤ベースに白地でKと書かれたホームベース型のボール紙のボードが来場者に配られていました。野茂投手が三振を取るとファンがそのKボードを上げて盛り上がる、みたいな。
こんな感じのボードです。
↓↓↓
だから当時は、今日は登板日を予想して藤井寺球場に通っていたのも思い出します。でも、今のように予告先発の時代じゃないから、よく予想だけで観戦に行ってたなーーー、と思います。だから野茂投手見たさで、野茂投手が先発する日と予想されるときは、観客も多かったし、強いチームに登板することが多かったので、西武戦をよく観戦した記憶があります。
そして、知ってる人は知っている、知らない人は全く知らない、楽天 則本投手が6試合連続2桁奪三振の日本タイ記録の並んだとき、野茂投手の記録が蘇ったのが近鉄ファンとしては嬉しいものでした。(2017年6月12日現在、則本投手の記録は、8試合まで伸びています。)
近鉄退団→メジャー挑戦
冒頭に書きましたが、
近鉄バファローズというチームは、「いけるぞ!」と期待をしてしまうと、ダメになってしまい、「ダメだ」「無理や」と諦めたときに、見事に裏切って、いってしまう不思議なチームです。
という球団なんです。野茂投手入団で、毎年最多勝、毎年王者 西武と優勝争いをするも、優勝できず、でも今年こそ、今年こそ、で近鉄も強かったんです。
でもね、近鉄と球団、優勝できるぞ、とファンが期待している中、まさかの出来事が起こります。それが野茂投手の任意引退。(自由契約でもなく、トレードでもない任意引退にしたのは、他の球団でプレーできないようにしたかったため)
理由は球団と揉めたようですが、ホンマあかんことでしたよ。野茂投手のいない近鉄はエースがいなくなりました。(10・19でフル回転し、1989年の優勝に貢献した阿波野投手も、巨人へトレードになっていた)
近鉄は野茂投手に代表されるように、よく選手と揉め、トレードで選手を放出していました。そんなところも悲しいかな、近鉄らしいんです。
だから、ボクは、何やってんねん!と当時高校生ながら思っておりました。
当時、任意引退になると、簡単に言うと、前所属球団の同意なしに、国内の球団と契約できない、というルールだったそうです。つまり、海外の球団には及ばないため、野茂投手はメジャー球団(ドジャース)と契約し、活躍することになります。
ですので、結果的には、野茂投手が日本人選手のメジャーの扉を開け、伊良部、長谷川、イチロー、松井秀喜、ダルビッシュ、マー君などに代表されるようにメジャーで活躍する日本人選手が出てきたことは、近鉄の功績(笑)かも知れませんね。
あとがき
野茂投手の近鉄の活躍は、5年しかありませんでしたが、トルネード投法でパ・リーグの強打者たちからバッタバッタと三振を取る姿は、自分の記憶から忘れることはありません。
指導者として、バッターとストレートで男の勝負をするピッチャーを育ててほしいな、と近鉄ファンとして夢を見ています。
ということで、それでは、またーー。